『超宇宙刑事ギャバン インフィニティ 太陽が泣いた日』を観た。

引用:https://x.com/toeihero_movie/status/2074690512087646378?s=46
多元地球A0073で発生したネガティブエモルギーが巨大な魔空空間となり、太陽をのみ込んだ。世界は光を失い、深い闇に包まれる中、カレル局長に「太陽はギャバンの命と引き換えに返す」という通信が届く。ギャバン・インフィニティ=弩城怜慈が指定の場所へ向かうと、そこには「全ギャバンの抹殺」を掲げる凶悪な敵・ギャバンキラーが待ち受けていた。その正体は、怜慈が慕っていた先輩刑事・長谷誠で、対ギャバンの秘策「アンチギャバリオン粒子」を操るギャバンキラーにインフィニティは苦戦を強いられる。(映画.comより)
この映画でもって、『超宇宙刑事ギャバン インフィニティ』(以下、超ギャバン)は次作『角醒ハンター オメガホーン』へのバトンタッチを全て終えたことになる。思えばこの半年間、我々特撮ヒーローオタクの日常は大きく変わった。50年間続いた偉大なるスーパー戦隊シリーズの終了。惜しまれながら終わったその逆風と期待、応援を同程度に受けながら始まった新シリーズ、Project R.E.D. の第1弾作品として始まった『超ギャバン』。随所にスーパー戦隊シリーズが築き上げてきたストーリー展開の定型から離れようとする努力の跡が見られるモノ作りは一定ラインの面白さ、真新しさを担保しつつも、お世辞には満足のいく終わりを迎えたとは言えなかった。
生まれてこの方、1年かけて「きちんと終わる」ヒーローばかり観てきたし、そうはならなかったとしても『仮面ライダー剣』の終わり方のように、ビターエンドとはいえ「一旦の終わりを迎えた」と言えるだけの壮絶な激闘を描けていた。そんな人生の中で突如体験する『超ギャバン』。海外ドラマの第1シーズンを観ているかのような「終わりきらない終わり」は、端的に言えばしんどかった。半年しかなかった放送期間を擁護の材料にしたいとも思うが、円谷さんはウルトラマンシリーズで「きちんと終わる」作品を観せてくれている。新しく始めるにあたって、東映さんはどれくらい準備したのだろう?気持ちよくスーパー戦隊シリーズを忘れてしまえるような、そんな爽快な終わりを望んでいたのに。
ここまで「終わりきらない終わり」に私が苦言を呈しているのは、Project R.E.D.がシリーズの在り方のモデルとしているであろうMARVELスタジオのMCUが落ち目になっている、その二の轍を突き進んでいるように思えてならないからだ。
2008年の『アイアンマン』から始まり、2019年の『アベンジャーズ:エンドゲーム』までの22作品で1つの世界観を構築し、全ての作品に繋がるサーガをきちんと終わらせることで映画業界の覇権を握ったと言って差し支えない記録を残したMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)。『エンドゲーム』後、コロナ禍や役者の不祥事などの外部要因はあれど、アメコミ映画オタクでもある私をもってして「落ち目」と表現せざるをえない状況にまで陥っているのは、まさに2021年から始まった新たなサーガの中で、「終わりきらない終わり」を映画でダラダラダラダラ何作も何作も作り続けているからだ。
一つ一つのキャラクターが、作品が、好きになりきれない。それは全て、『エンドゲーム』のような後に続く何かに繋げて昇華させることが目的化し、目の前の作品にウエイトが乗っていない、もっと悪意を込めて言えば「後でうまいことやってくれるやろ。今は投げっぱなしでええやろ。続くし」という惰性からくる描写の怠慢と緊張感のなさ、中途半端な態度によって不足しているものがあるからだ。後に繋げることばかり考えて、いつ終わってもいいような最低限の満足感を与えるモノ作りができていない。
だからこそ、『超ギャバン』は『超ギャバン』として「きちんと終わる」べきだったのだ。いつ終わるとも知れないシリーズを走らせるのなら、そのスタートダッシュは全力疾走であるべきだ。それはそう、MCUが形になるかどうかも分からなかった1作目の『アイアンマン』で「時には歩くより、まず走れ」と言っていたように。
これだけゴチャゴチャ文句を垂れたとしても、いちオタク、いち視聴者に過ぎない。Project R.E.D.を応援したいのに、不安が大きくなる。というか、こういう風にうるさいオタクがゴチャゴチャぬかすから新規が入りづらいのだ。でも私たちファンすら楽しめない作品を果たして新規は楽しめるのだろうか。新規に向けて素敵な作品たちをきちんと終わらせて、その上で大集合させれば良かったんじゃないか。私はどうしたらいいんだ。我ながらひどい。このように『超ギャバン』に対して消化不良な自分、そんな私を「きちんと終わらせる」ために、『太陽が泣いた日』を観るしかなかった。結果その消化不良を解消させる、一定の役割が『太陽が泣いた日』にはあったように思う。
本編最終回、怜慈は大佐の食事の誘いを背に受け、振り向くことなく手を振った。ちょうど『太陽が泣いた日』で後に敵になる先輩刑事、長谷さんと怜慈のやりとりに重なる。その後長谷さんはギャバンキラーとなり、敵としてギャバンインフィニティの前に立ちはだかった。激闘の末、ギャバンキラーを救うインフィニティ。「怒りを溜め込むと潰れちまうぞ」「溜め込む前に涙を流せ」と、長谷さんは怜慈の心の奥を分かっているかのようにそう言っていた。
で、『オメガホーン』では怜慈と瓜二つのレイジなるキャラクターが敵陣営にいる。未知の惑星に向かわんとする大佐たちを描いて、『太陽が泣いた日』は終わる……いや、ここでも終わりきらない。なのに私の消化不良は終わった。
特撮ヒーローオタクを自称して、東映のモノ作りに難癖つける厄介なオタクに育ってしまったのなら、もっと大きな視点でモノを見よう。
果たして東映は、これまで一度も特撮ヒーローのモノ作りをきちんと終わらせたことが、あっただろうか?
オタクだろうと新規だろうと、究極1つも特撮ヒーローものを観たことがない人でも、この問いには「否」と、そう答えるに違いない。
そう、東映は特撮ヒーローを作り続けている。始めてから現在に至るまで、終わらせたことがない。確かそのはずだ。にも関わらず、近年(というか、少なく見積っても50年以上)は1年ごとに新作を作り続けてばかりいた。
これからも作り続けるのだとしたら。1年ごとのモノ作りを永遠に続けるより、モノ作りのシステム、それ自体の手札を増やしてみるのはどうか。半年で終わるも良し、1クールでも構わないし、人気を得れば2年目に突入するのも悪くない。そんなフットワークの軽さでお得意の特撮ヒーローを沢山登場させ続け、今までみたいに1年で総入れ替えされ、「一個前のライダーのベルト」が並ぶのではなく、複数のヒーローの変身アイテムが随時追加され、どんどんおもちゃコーナーの棚が「今やってるやつに出てる誰かのなにか」で賑やかになっていくシリーズ、それがProject R.E.D.なのだとしたら。恥ずかしながら、私はちょっとワクワクしてしまっている。
拙さゆえに「終わりきらない」になったのではない。狙ってそうした。もちろん冒頭のように『超ギャバン』単体の出来は良いとは言えない。「終わりきらない」のであれば、設定の矛盾とかには絶対の注意を払わなければならないが、そういうところはおそらく甘い。しかし、そもそも「終わることなどない」のだ、東映の特撮ヒーローもの作りというのは。「終わらせるつもりなどない」、そういうところまで、遂に来たということなのかもしれない。それこそ、ギャバンキラーが宇宙のどこかで見つけてきたアンチギャバリオン粒子なんて、デス・ギャバンと再び相対した時のために見つけたいものになったりしないだろうか。そう、こんな風に我々のワクワクも「終わることなどない」。
東映および私の目論見が大幅に外れて、Project R.E.D.は大コケ大爆死、なんていうことも、そりゃあ有り得る。今できることをやり抜いた結果が前のめりなドンずべりなら、それでいいじゃないか。「変なワイドショーになっちまったじゃねーか!ww」「いやーいけると思ったんスけどねー!!www」でいいじゃないか。どうせ文句を垂れる厄介オタクなら、共に倒れるくらいの気概で望みたい。振り向かず走りきる若さ。躊躇わず突き進む愛。それこそが最も強い感情なのだから。
オワコンだと決めつけるのは、いつもこちら側だ。
国産のヒーローが、終わらないために。
ヒーローとは、なんなのか。
東映の“意地“を感じていく、これからはそんな人生になりそうだ。





























