スーパー戦隊シリーズ50周年を記念して勝手にスタートした制覇企画、第14弾である。
不思議存在としての妖精の登場、パワフルなコメディリリーフの一般人、初の設定となった高校生たちを引き締めるライバルキャラなど、前作とはまた違う視点、爽やかな後味の「青春」を描いた『高速戦隊ターボレンジャー』。
それを踏まえて『地球戦隊ファイブマン』ではどのような物語が描かれ、またそれが平成生まれのヒーロー好きの目にはどのように映ったのか、その率直な感想を記していく。

教師がヒーローだった時代
全員が高校生だった『ターボレンジャー』から一転、『地球戦隊ファイブマン』のメンバーは全員が教師である。山口先生がターボレンジャーにとって「守るべき大人」の代表であり「悩める若者のヒーロー」でもあったことから、よりちびっ子たちのヒーローを描きたいという思いがあったのかもしれない。やはりこの時代は、教師という職業を神聖視していた向きがある。

とはいえ前作と同様に学校生活を描写することは最低限に抑えられているのだが(第1話で職場が敵の攻撃を受けて崩壊するところから始まるので)、だからこそというべきか、意識的に子供との交流、特に「学び」にフォーカスが向いていたように感じた。
その分だけ対象年齢が下がっていたというか、大人の観賞に耐えうるクオリティだったかと言われると、ちょっとヤバいかもなという場面が時折あった。一話限りだとばかり思っていた命をもって言葉をしゃべるファイブマンぬいぐるみが出てきて「ファイブマンが危ない!みんな応援して!!」とか言い出したときは流石に体が強張った。

『仮面ライダークウガ』で育ったちびっ子なので、そういう「媚び」とか「擦り寄り」には慣れていない。子供だろうが大人だろうが、届くものは届く。届けたいと想ったものを届ける。そういう作品作りとは対極にあると言ってもいい「いかにもウケようとしているテコ入れ」には拒否反応が起こってしまうのだろう。
この手の反応はシリーズ上唯一の打ち切り作『ジャッカー電撃隊』中盤の迷走を追いかけていた時にも抱いていたが、なるほど『地球戦隊ファイブマン』も視聴率の低迷に苦しんだ戦隊だったそうだ。劇画っぽいスパイアクションを志向した『ジャッカー』ほど傷は深くはなかったが、手を変え品を変え色々と試そうとするこの時期にこそ、東映の「続けることへの狂気」が迸る。

悪役とバブル
『地球戦隊ファイブマン』が後年の作品に残した功績はなんだろう。強化アーマー?兄妹(家族)というメンバー構成?
それだけではない。いや、それどころではないと言った方がいい。スーパー戦隊シリーズを愛する皆さま、トンチキ回の元祖は『地球戦隊ファイブマン』であることをワタクシ、この度確認いたしました。
逆さまデーと銘打たれた日を描いたエピソードがそれだ。敵組織の艦長・ガロアが組織で最も地位が低く、反対に下級戦士の雑魚敵が全ての権力を得て幹部たちをアゴで使えるようになる日。

粗野で横暴といった印象だったガロア艦長が部下たちにヘコヘコしながら敬語を使う様は滑稽で、威厳もクソもあったもんじゃない。しかもこの日が来ることに一切の脈絡がないのがスゴい。間違いなく思いつきで「ガロア艦長を情けない奴にしよう」と動いている。
発想、展開、完成品、全てがトンチキ。スーパー戦隊シリーズではトンチキが振り切れすぎて農林水産省と組むようになったシャケの怪人もいるが、全てはこの逆さまデーが無ければ生み出されなかったムーブメントだ。こういう回が「あってもいい」という風潮を一発で作り上げてしまった功績は称えなければならない。
さて、そんなガロア艦長であるが、不憫というか、哀れというか、制作陣から不遇の扱いを受けたのは逆さまデーが序章に過ぎなかった。
そもそもが先述の低視聴率を打破するための策の一つだったそうだが、威厳ある悪の組織のリーダーが情けなくなってしまうという描写は当時では受け入れがたかったらしく(当たり前や)、イマイチ反応はよろしくなかったらしい。
しかし一度やってしまったことから逃げずに向き合う東映の変な生真面目さがここで発動し、ガロアの艦長という座を脅かすシュバリエというキャラクターを出したかと思えば、自らの作戦失敗の責任をとらされ掃除係へ降格という、おおよそ初期には想定してなかったであろう憂き目に遭わせてしまう。

それだけではない。しぶとく生き残ったガロアは虎視眈々とシュバリエから艦長の座を奪う機を狙っていたが時すでに遅し、ファイブマンとの最終決戦に差し掛かったところで、そもそも艦長という肩書き自体が空虚なものだったと分かっても尚その椅子にしがみつき……この先は確認してみてほしい。
スーパー戦隊シリーズの悪役はこれまで、悪役とはいえ華々しい最期が用意されていたものだ。それはレッドとの一騎打ちであったり、ボスに捨て駒として利用されたりと、敵ながら天晴、印象的なキャラクターの死に様の教科書のようであったが、『地球戦隊ファイブマン』におけるガロア艦長はなぜこんなことになってしまったのか。
私はこれを、当時の日本経済と結びつけて考えてしまった。1990年から始まった『地球戦隊ファイブマン』の悪役の最期は、その1年後まさに崩壊せんとしていたバブル景気の終焉を感じさせる予言のような終わりだった。
空虚な艦長の椅子という「権力」にいつまでもしがみつく権力者と、割愛していたが同じく戦艦の中に残り金銀財宝、「資産」をがめろうとした欲深い商人(ドンコロス)。悪役らしく死なせても貰えなかったこのキャラクター達が何かのメタファーではないとは、私は思えなかった。
ヒーロー番組は教育番組であるという先人の名言に則って言えば、『地球戦隊ファイブマン』は悪役の転落劇と情けなさすぎる最期を通して、当時のちびっ子たちに強欲が身を滅ぼすことを伝えたかったのだろう。
『ターボレンジャー』と同様、『地球戦隊ファイブマン』も学校での風景はあまり描写されなかったが、しかしこのメッセージのおかげでシリーズ随一の時代性を抱いている作品となっている。

初めての「家族」
さて、このように『地球戦隊ファイブマン』は東映の「続けることへの狂気」が垣間見え、バブル期におけるスーパー戦隊シリーズの苦闘という形で、ヒーロー番組に時代性を強く匂わせる作品となった。

生まれる前の作品を観続けていく本企画において、当時の最低視聴率を記録したという触れ込みは事前の懸念を強くするにはあまりある。時間がかかることを覚悟して臨んだが、全くの杞憂だった。
その大きな要因となったのが「家族」という初めてのメンバー構成である。全くの他人であるはずの若者たちが戦士として集められ、次第にその友情を深めていき、チームとして、戦隊として完成されていく。スーパー戦隊というのは、つまるところこの過程を1年間かけて追いかけていくのが面白い。

『地球戦隊ファイブマン』は、いや「家族」という設定はこのスーパー戦隊の面白さと真逆にあると言ってもいい。
誤解を恐れずに言えば、これまでの戦隊はあまりにもすんなり協力できすぎていたのだ。既に正義の戦士でいようとしているものから選抜された軍人で構成されている戦隊と違い、つい先ほどまで普通に暮らしていた若者がひょんなことから戦うことになるタイプの作品はそれを「運命」であるかのように描写していた。

しかしそこに対しての唐突さに誰も戸惑わない、そしてほぼ全員が見ず知らずの他人と力を合わせることに疑いを持たないのは、現代のスーパー戦隊を観て育った私から観るとやはり描写が足りないと思うことがあった。『電子戦隊デンジマン』ではピンクが個人の夢を優先したいと悩んだり、『超電子バイオマン』ではイエローが早々に戦隊入りを拒否したりと、シリーズがこの穴に無自覚であったわけではない。ただやはりそれは描写として「異端」とか「少数派」になってしまっていた。

『地球戦隊ファイブマン』は違う。遠い宇宙の惑星で悪の組織に襲われ、両親と離れ離れになり、幼い子供たちと世話役のロボットだけで生き抜かなければならかった兄弟姉妹が戦うことを決意した、この「歴史」を「運命」と呼ばずして何と呼ぶのだろう。
全員がお互いの癖や特技を知り尽くし、秀でたところは思う存分活かして、足りないところは残りの全員で補い合って戦う、理想的なチームプレー。仮に「問題児」がいたとしても決して「異端」「少数派」にはなり得ない「家族」でなければ実現できない。

その後も『救急戦隊ゴーゴーファイブ』『魔法戦隊マジレンジャー』、いとこ同士の『手裏剣戦隊ニンニンジャー』という形で「家族=本編では描き切れない厚みの信頼」が流れている戦隊は続々と登場していくのだが、『地球戦隊ファイブマン』はその元祖として、100点満点の回答を叩き出していると言ってもいい。最低視聴率が非常にもったいない、そのレベルだった。
命と引き換えに未来を叶えようとした戦士たちの愛は時を飛び越え、我々のことをいつも助けてくれる。

前作『高速戦隊ターボレンジャー』の感想はこちらから↓↓↓
amecomihighschool.hatenablog.com
