スーパー戦隊シリーズ50周年を記念して勝手にスタートした制覇企画、第12弾である。
当時話題となっていた社会情勢を盛り込み、家族や友人、果ては当たり前のように暮らしている地球への愛を思い起こさせるほど悲しい物語となった『超新星フラッシュマン』。
それを受け『光戦隊マスクマン』にはどのような物語が描かれ、またそれが平成生まれのヒーロー好きの目にはどう映ったのか、その率直な感想を記しておく。

レッド一強戦隊について
この企画においてようやくこの話をする時が来た。
『大戦隊ゴーグルファイブ』で初のブラックが登場し、クールキャラを取って代わられたブルーが若くて溌溂としたキャラクターになったり、『超電子バイオマン』で初の女性2人体制となった時には、以前のピンクが担っていた勝気な女性像はイエローが受け持ち、ピンクは等身大の女の子、という具合にメンバーの担当カラーとその性格には様々な変化や工夫が見られるようになった。
しかし、いや、やはりというべきか、その中で唯一変わらなかったものが、「レッドのリーダー性」である。その強い責任感で仲間たちを導き、精神的支柱としてチームの要を担うレッドの人間性だけが、『科学戦隊ダイナマン』で実験失敗して口から煙吐いていたとしてもブレなかった。
これには物語上、主演として据えられたレッドを安直にキャラ崩壊させられない難しさがあったという見方もできる。終盤の困難に対し、これまでの仲間たちの成長をリーダーとして俯瞰で見ることができていたレッドが下す決断は、イコールその戦隊の総意として、世界を彼らが守る理由、存在意義としてお茶の間に届く。極論、我々がレッドに下す評価がそのままその戦隊、あるいは作品の人気に大きくかかわると言っても差し支えない。だから王道のヒーロー展開をもたらしてくれる純粋なヒーロー像を与えられる。
というか、レッドが「そう」だから周囲のメンバーが悩み迷ってもヒーローでいられるのだ。熱くても冷静でも、知的でもバカでも、長男だろうと末っ子だろうと、レッドがヒーローでいることから逃げないから周りも逃げずに戦えるのだ。

『光戦隊マスクマン』は、ついにこの辺りに変化を求めた、東映の「続けるための狂気」を感じた作品だった。それが見出しの「レッド一強」だ。
『フラッシュマン』で全員の悲願として設定されていた「生き別れの親探し」という強いドラマ性は、『光戦隊マスクマン』ではレッドの「恋仲になった敵組織のお姫様を救う」という一点のみ、もう一度言う、一点「のみ」になった。

これで結果的にどうなったかというと、少なくとも『光戦隊マスクマン』においては他のメンバーとのバランスが取れていたように思う。
一年間を走り抜けるための強い縦軸をレッドが担い、各個のエピソードで他のメンバーがそれぞれの魅力を発揮し、『光戦隊マスクマン』という作品の輪郭をかたどる。そういった相互作用の結果として、レッドが因縁の敵幹部とタイマンを張るとか、ラスボスに最後のトドメを刺すとかが説得力を持つ。「レッド一強戦隊」はその後数々の作品で採用される1つのフォーマットとして定着するが、それはやはりドラマのメインパートを担うくらいに留めておいてくれたほうが個人的に好みなようだ。
中盤以降でレッドだけがパワーアップする戦隊は、どうしても存在する。それらに対する拭い去れない小さな抵抗は、与え、与えられる複数人のヒーローを描いていることとの矛盾によるところが大きい。
私はというと、こういう感じに言ってしまうことからも分かる通り、作品がレッド一強戦隊の様相を呈し始めた辺りで「あぁ……キッツ……」となるくらいには相性が悪いなと感じている。
戦隊シリーズにおいて、こう言っちゃなんだがほっといても目立つようにできているレッドがより強くなっていく展開は、じゃあお前一人で世界救いなさいや……と思わずにいられない。チームでやってなんぼじゃろがい、という想いだ。
その逆で、『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』のようなレッドの爆裂一強体制なんかを面白がる自分もいる。要は振り切っているかどうかであって、因縁のライバルとか、今回のような思い切ったドラマ性を任せるとかしない限りはレッド一強戦隊を飲み込めない自分がいる。私にとっては、『光戦隊マスクマン』はある意味記念碑的な作品と言えよう。

手ごたえあり!
個性豊かなキャラクター、人智を超えた不思議概念、切なくシリアスなストーリー展開、自らを限界まで追い込んで力を引き出そうとする精神論。これらは皆、『光戦隊マスクマン』で初出ではないが、どれも必要な要素である。
序盤までこの記事を書くのに苦労しそうだなと思うくらいには目新しい要素がなかった『光戦隊マスクマン』だが、それこそが本作の狙いだったのだろう。過去の作品で反響がよかった要素を少しだけアレンジした状態で全部入れ込む。『太陽戦隊サンバルカン』で原点回帰を図るため行っていた要素の足し引きが再度行われ、気功や東洋秘術のイメージを軸にして、進化・成長した特撮技術を頼りに、過去できなかったことをやる。
先述の「レッド一強戦隊」体制、およびそれを実現させるための恋愛要素が『光戦隊マスクマン』を『光戦隊マスクマン』たらしめる最重要パーツではあるが、それらの成功は過去の作品が積み上げてきた試行錯誤の賜物だろう。むしろ強い軸を手に入れたことによって、より自由度が高くできたとも言える。

現に『電撃戦隊チェンジマン』ではエフェクトが変更されたに留まっていたバズーカ武器は、強化というより全く別のフォルムのバズーカとして2つ登場しているし、ようやくというべきか、遂に私の慣れ親しんでいる「5体のメカに1人がそれぞれ搭乗して合体」というロボットのシステムが出来上がった。2号ロボも『フラッシュマン』に引き続き登場し、新たな伝統としての芽吹きも感じさせる。

そうそう、2号ロボへの言及を『フラッシュマン』ではできなかったから、早いうちにやっておきたい。中盤の大きな目玉として登場する2号ロボ・ギャラクシーロボだが、『光戦隊マスクマン』においては完全に1号ロボ・グレートファイブを食ってしまったと言ってもいいかもしれない。
まずもって「心を持っているロボ」という設定。こちらも『バイオマン』で既出の要素ではあるが、登場したては暴走しているという設定、アイテムに頼らず己を鍛えることで状況を打破する物語上の理念が予期せぬ化学反応を起こしたことによって唯一無二の「座禅を組むロボット」として強い印象を残している。あまりにも親和性が高すぎる。

結果として2号ロボでありながらラスボスの撃破をも担ってしまったギャラクシーロボは、必ずしも1号ロボが倒さねばならないというわけではないという前例を作ることになり、シリーズの裾野を広げることになる。

大上段に構えて
さて、『光戦隊マスクマン』の大きな縦軸、「レッドは愛するお姫様を救えるのか」の話をすることにしよう。

演劇・映画・ドラマ・アニメ、全国津々浦々の創作物において、愛をテーマに据えた作品は山のように存在する。スーパー戦隊シリーズで主軸に置いた作品はてっきり『鳥人戦隊ジェットマン』だとばかり思っていたが、それはあくまで花開いたターニングポイントとしての価値だったようだ。『光戦隊マスクマン』では、過去の作品で種を植えられていた戦士の恋心を取り扱うエピソードを水をあげて芽吹かせた、そういう表現が正しいのかもしれない。
当時のプロデューサーは、このことに対して大上段に構えたテーマはどうかと思ったが、シリーズのマンネリ化を打破するためにも採用したらしい。大上段ってなんだ。調べたら横柄な態度とか、そういうことらしい。ふーん。勉強になった。
ていうか、え、愛をテーマにするのって横柄なんや。
当時の感覚でもシリーズ9作目となり、節目が近づくにつれてネタ切れの焦燥感も募る中、ガキの観る番組と揶揄される風潮のまだ強かったシリーズで愛を取り扱うことに対する逡巡がそう言わせたのかもしれないが、少なからず「もう『そういうの』をやってしまっても良くなったんじゃないか」と感じた上でのスタートだったんだと思う。でないとこの博打は打てない。
レッドが全編に渡って世界と同じくらいかそれ以上にお姫様を救おうとしているだけでなく、ブラックやピンクにも想い想われるような相手が出てくるエピソードがあるし、もう『そういうの』をやりたくてしゃーないのが漏れ出てしまっている。よく『ジェットマン』まで我慢したものだ。
本来のターゲットであるちびっ子たちへ、信じられるヒーローを届けるためにブルーとイエローが存在しているし、全方位への愛が溢れ出てやまない『光戦隊マスクマン』は、新機軸のサプライズとかは必要ない、今まで持っていたものと、その奥底に流れていた大上段かもしれない気持ちから逃げずに向き合って真っ直ぐ届けたいという情熱に満ち満ちた作品だった。これは作り手もよっぽど愛のソルジャー、といったところか。
ところで『超獣戦隊ライブマン』は数年前に視聴済みなのだが、どういう風に扱おうか迷っている。これをいつものフォーマットでやってしまうと今まで観てきたやつ全部をやらなきゃいけなくなるし、かといってやらないのも気持ち悪い。
ワキリントよ、おれはなぜ、『ライブマン』だけ先に観ちゃったのか……

前作『超新星フラッシュマン』の感想はこちらから↓↓↓
