スーパー戦隊シリーズ50周年を記念して勝手にスタートした制覇企画、第10弾である。
シリーズそのものを揺るがしかねない大事件に見舞われながらも、それすらも物語の展開に組み込み活かしきった『超電子バイオマン』。
それを受け『電撃戦隊チェンジマン』にはどのような物語が描かれ、またそれが平成生まれのヒーロー好きの目にはどう映ったのか、その率直な感想を記しておく。

バズーカ、それは人の夢
スーパー戦隊シリーズに合体バズーカ武器が出なくなって久しい。
近年の作品では個人がバリバリのCGを駆使したカッチョ演出で、手持ちの銃であったり剣であったりで怪人を撃破することが多く、記憶が正しければ各戦士の専用武器が合体してバズーカの形をとるのは『烈車戦隊トッキュウジャー』で最後。実に11年前ということになる。
あるいは『機界戦隊ゼンカイジャー』にて、ロボがビーム砲を撃っていた。とにかくそのものズバリの合体バズーカ武器、およびそれでの撃破というのは、令和になって皆無と言って差し支えない事態になっている。
考えてみれば分かる。そもそも論として、各戦士の専用武器というものが割り当てられていない作品が増えてきた。これは変身アイテムやロボに比べて武器という「商品」が持つプレイバリューが低く、不景気の煽りなんかも受けながら、基本「ないもの」として扱ってきているからであろう。現在の『ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー』でも、各ロボへの合体パーツとして存在させることでなんとか価値を生み出している。
つまり、今や武器は単体での登場をさせることがめちゃくちゃ困難になっている。書けば書くほど悲しくなってくる。失われつつある伝統を目の当たりにしている感覚には、あまり慣れていない。

その伝統が花開いたのは『電撃戦隊チェンジマン』であった。等身大戦での決め技として採用されたパワーバズーカは、そのセンセーショナルさと打って変わって、さもずっと昔からありましたみたいな顔をして登場する。
前作、前々作と続けて5人がエネルギー体になって直接的に体当たりかます技だっただけで、実は『ジャッカー電撃隊』でビッグボンバーという大砲は登場している。ただしこちらは個々のパーツを組み合わせるに留まっており、それぞれが戦闘力を有する武器、ということではない。
怪人を倒す最後の必殺技としてそれぞれの武器を持ち寄り、それが合体しバズーカとなる。この種を植えたのは『ジャッカー』、シリーズの中でそのアイデアを昇華させることに成功したのが『電撃戦隊チェンジマン』といったところだろう。
何しろ幼少期の戦隊はここぞとばかりにバズーカをぶっぱなしていたから、最近の登場率の低さには悲しさを覚えてならないのだ。あの時のちびっ子を代表して、バズーカの復活を願ってやまない。

嘘みたいな縦軸
「縦軸/横軸」という概念を使って作品を観ている。
縦軸は簡単に言うと時系列や目的。横軸は登場人物同士の関係性。1年間放送し続ける作品では縦軸の長さ故に様々な展開、サプライズが盛り込まれ、その結果大きな目的達成に対しての障害が発生し、チームの絆にヒビが入ったり修復されたりする。
そんな私だからこそというべきか、『ダイナマン』での悪役側の縦軸/横軸の変化によってヒーロー側の縦軸に影響が与えられることにグッときたし、『バイオマン』では予期せぬハプニングやその始末に追われたであろう縦軸/横軸をコントロールしきったことに喝采を送ったのである。
さて、それを受けての『電撃戦隊チェンジマン』だが、今までにない体験をしたことを先に伝えておく。

具体的には、1回きりのゲストキャラと思っていたらめっちゃ重要な存在になってなんなら準レギュラーくらいになったのだ。
これまでの作品では、メンバーと懇意にしていたり、パトロール中にいじめられていたのを助けたりしたちびっ子とか、敵組織に発明と命を狙われる博士とその家族とかだった。
こういうキャラクターはあくまでそのエピソードにおける小さな縦軸を転がすための、言い方は悪いが舞台装置として登場する。そのためヒーローが怪人を撃破し終わったら、そこには爽やかな別れがあるだけだった。
『電撃戦隊チェンジマン』は違う。顔も名前も1話かぎりなんだから別に記憶に留めてなかったあのキャラが、エピソードとして割としっかり目にいい後味で終わってお別れしたあのキャラが、数話経って平然と再登場してくる。

いや、別に登場することそれ事態には全く問題がない。命を救われているのだから、そのキャラクターにも日常を生きる権利というものがある。がしかし、それが再びヒーローの縦軸と絡むなどとは思ってませんやんか。そんな不意打ちのパンチを喰らわせまくったのが『電撃戦隊チェンジマン』だ。
敵組織においても例外ではない。地球を支配下に置こうとする大星団ゴズマは、既に宇宙の星々を征服し終えている敵として登場する。それだけでなく、ゴズマは幹部から怪人に至るまで征服された星の生き残りで構成されており、故郷の再興を条件に親玉の大星王バズーに恐怖の忠誠を誓っているに過ぎないのだ。

だからというべきか、当然の疑問として「こいつら(主に幹部たちに対してだが)は本当にやりたくてやってんのか??」というものが生まれる。しかし、この辺への言及は序盤に上記のような関係性を示すためのセリフに留まっていた。
いやいや、こいつらのアレコレをさ、きちんと分かってあげたら話して解決するかもじゃない?何も戦う必要、ないんじゃない??どう???あ、今週もそういうのやらんのや……ふーん……面白くなりそうなんやけどな……まぁ話が混みいる可能性あるか……怪人を倒すことへの是非とかを問うてくる筋になりかn
いややるんかーーーーーーい(ズッコケ)
こんな具合である。一番美味しいところを最後まで取っておいた、そういう感覚だ。あるいはそれがヒーロー側に届いたときには既に後戻りできないところまできてしまう、それが「戦争」というものなのだ、というメッセージなのだろうか。これはあまりにも飛躍しているか。
やや駆け足な印象もあったため、やはり要所要所で幹部たちが苦悩するエピソードやシーンを挟むのがより好みだった(バズーがなんでもお見通しの奴なので無理なのも分かるが……)が、それはそれで「いや、そうよねぇ!?!?」と肩を組んで話したくなる気持ちになった。
こういうタイプの「尻上がりに面白くなる話」は出会ったことがない。

困難を乗り越えるということ
チェンジマンは、今では考えられない描写の激ヤバ訓練の末、地球が自らの危機に瀕した時に発する不思議概念・アースフォースをその身に宿した若者たちが変身する戦士の呼称である。

私はこれまでの人生で、絶望的な状況に陥ってもなお立ち上がり、戦う意志を示した時、不思議概念が覚醒して強くなれる、そんなヒーローたちの成長を描く場面を幾度となく観てきた。
アツい。心が震える。ただしかし、ご都合が過ぎる。「こういうのでいいんだよ」とは思いつつも、「ちと簡単すぎる」というのは、どれだけ好意的に観ていてもちょっと思ってしまう。
『電撃戦隊チェンジマン』は違った。絶望的な状況に陥った時、ブルーがアースフォースに縋ろうとする、この生々しさ。そしてそれに一切応えないアースフォースの、ひいては地球の冷酷さ。
もう一本、別のルートとして「皆で団結して戦えばきっと勝てる!」が用意されているのがスーパー戦隊シリーズだが、正直この時、全員の心が折れていた。
疲弊して動けなくなっている戦士たちに、激ヤバ訓練の末彼らを見出した長官はビームガンで襲いかかり
襲いかかり!?!?!?
手を差し伸べるのはおろか厳しい叱咤激励より先に!?!?!?
ビームガンですと!?!?!?!?
血相変えて殺しにくる長官から逃げ惑う若者たちに「まだ動けるじゃないか」と、「戦え」という。またまた不意打ちだ。当然鬼だ悪魔だと糾弾されるのだが、不思議と長官の言葉は暴論だとは思えない。
「力の限り戦う」とは。「死力を尽くして戦う」とは。「この命に代えても地球を守る」とは。ビームガンで仲間が殺されそうになった時、そんな状況になっても一切自分の体が動かせない、そういうことを指すのではないか。
そこからの「奇跡」を科学とか、不思議概念とかをアテにするとか、「絶対に諦めない!」という言葉に呼応させるとかではなく、動かせなかったはずの肉体が奮い立つ行動として表す。『電撃戦隊チェンジマン』はそう示している。都合がいいとは言わせない凄みがあった。
あまりにも乱暴な描き方だが、人間の限界を、底力を信じている長官の想いに、チェンジマンはアースフォースの限界を引き出す形で応える。
「チェンジマンになれたような気がします」。この言葉の重み。しばらくどういう意味合いでこの名前になったのか分からない戦隊が続くが、『電撃戦隊チェンジマン』はこれで説明がつく。チェンジマンは二度変身するから。そういうことにしたい。

すごいペースで観賞が進んでいる。年内の制覇に向けて、これからも立ち止まらず、振り返らず、過去のヒーローたちが守ってきた、でっかい未来を見届けたい。

エンディング、なんでロボがやられとるシーンで終わるんやろね。
前作『超電子バイオマン』の感想はこちらから↓↓↓
