スーパー戦隊シリーズ50周年を記念して勝手にスタートした制覇企画、第8弾である。
初のブラック加入や、それに伴うキャラクターと性格の組み合わせが生まれるなど、新しい視点が盛り込まれた一方で、科学の限界が少しづつ顔を覗かせてきた『大戦隊ゴーグルファイブ』。
それを受け『科学戦隊ダイナマン』にはどのような物語が描かれ、またそれが平成生まれのヒーロー好きの目にはどう映ったのか、その率直な感想を記しておく。

本当に爆発させたもの
『科学戦隊ダイナマン』は景気がいい。それは過去の作品でお馴染みとなっている遠方ロケ回に九州が追加されていることとか、今作の代名詞とも言える頻繁な爆発やヘリコプターを使ったアクションとかで想像される、経済面での景気の良さだけではない。
懸念していた「科学」をその名に据えた『科学戦隊ダイナマン』は、人類を支配せんと企む悪の組織が繰り出す恐るべき兵器と、それを阻止せんと人類のために戦う者たちが用いる武器の両者が、本質的には科学の軍事利用であるという負の側面からの脱却を図った。
環境に良いオートバイ、宇宙人との交信、動物と会話できるようになる装置などなど、ダイナマンへと変身する若者たちは皆「科学」に夢を託し、その実現にまるで少年少女のような純粋さで取り組む。

長官が世を忍ぶ仮の姿として子供たちと接していた「発明おじさん」というのが当時どれだけポピュラーな存在だったのかは知る由もない(『モヤモヤさまぁ〜ず』でたまに変な発明で凄い空気にするおじさんが出てくるけど、ああいうことなのか?)が、あんなこといいなできたらいいなを今この瞬間に生み出そうとする「発明」という科学の存在意義にスポットを当てたのは非常に良かった。
敵を撃滅せんという目的でしか我々の目に現れなかった科学は、『科学戦隊ダイナマン』では空飛ぶ自転車のような発明品、あるいはそれの失敗(その多くが爆発)という形でポップさと笑いを提供している。
その結果として爆破されたのは発明品だけではない。オートバイに乗ったレッドを黒焦げにさせ、「絶対的なリーダー」という固定観念を打ち壊した。全員で二枚目と三枚目をローテーションする男性キャラクターは人間的な深みを獲得するに至り、『大戦隊ゴーグルファイブ』で始まったキャラクターと担当カラーの組み合わせの流れに新しい動きを見せることになった。
実際物語を重ねる毎にレッドのリーダーシップは強くなっていくのだが、いわゆる「おバカレッド」の芽吹きは『科学戦隊ダイナマン』なのかもしれない。

本当に無能だったもの
悪役サイドの物語が相当面白かったということも語らなければいけない。それほど秀逸な流れであった。
これまでの戦隊では、チームで戦うヒーローであるスーパー戦隊という魅力を際立たせるため、という大義名分はあれど、群れてはいても一枚岩ではない、あるいはそうでなくなってしまう悪の組織が多く、じれったい思いをすることが多々あった。
『電子戦隊デンジマン』では中盤から現れた用心棒みたいなやつに連帯を引っかき回されたり、『太陽戦隊サンバルカン』では己が野心に駆られた幹部が組織に対して疑心暗鬼になりまくったりしていた。それが物語終盤、「最後の戦いは近い!より団結を強めて平和な世界を守るんだ!」とかヒーローたちが言ってる裏で行われるものだから、孤独になってしまった悪と力を合わせている正義の戦いが繰り返されることになる。
これではハラハラドキドキしない。ただでさえラスボスが最終回で初お目見えのよく分からん生命体だったりするので、「お前らも仲良うせいや」とツッコミを入れてしまうのだ。
前作でヒーロー側の物語にある程度の成熟、そこから新たな変化へのチャレンジが見られるようになり、そこから一歩出遅れる形で悪役側の物語にもメスが入ったということなのだろう。
まずはラスボスと思しき首領のキャラが第1話できちんと登場する。これですら新しい部類の変化だ。それだけでなく、幹部としてその息子が前線の指揮を執るという2段構えだ。
当然ダイナマンに企みをとことん阻まれ、更には従姉妹の女幹部に煽られ、ラスボスの息子という立場が「無能さ」の出汁でどんどん煮詰められていく。

これだけでも十分面白い。『海賊戦隊ゴーカイジャー』のワルズ・ギルのような、その無能さでもって「愛すべき悪役」となった幹部メギドだったが、驚くのはまだ早かった。
投獄の憂き目に遭い、脱獄してダークナイトと名を変え、ダイナマンはおろかかつての味方であった悪役たちでさえも翻弄する大活躍をみせたことだ。

世界を支配するために短絡的な作戦へと打って出た我が父親を、泥水を啜った屈辱をバネに成長したメギドは「己の力で鍛えてこそ」とヒーローみたいなことを言って打ち負かす。
この一連の流れによってダイナマンが終始翻弄されているのも素晴らしい。悪役の勢力図が変化することで、その受け手となるヒーローたちが劣勢になりつつある予感がきちんと感じられる。これまでの作品で一番「今回は負けるかも」と思えた。それほどのインパクトを与えたメギドは間違いなくMVPと言っていい。無能の汚名は返上された。
思いもよらないラスボス交代劇であったが、これは誰がどう観ても素晴らしい返り咲きの物語であった。と同時に、最強の存在でありながら忠臣のことを最後まで信じきることができず、自らの身だけでなく組織全体のパワーを著しく落とした首領こそが真の無能だったと言わざるを得ない。

魅力的な悪役があってこそヒーローは輝く。そのラスボスが最初から最後まで、たとえば『侍戦隊シンケンジャー』の血祭ドウコクのような圧倒的カリスマ性と強さを放ち続けたままヒーローと対峙する絶望感は、いつになったら味わえるのだろう。今後に期待したい。

本当に叶えたいもの
さて、このように『科学戦隊ダイナマン』ではヒーロー、悪役双方のキャラクター性や物語の展開にブラッシュアップが観られ、その相互作用によって爆発的な面白さを届けてくれた作品であった。
途中から放送枠の変更に伴い、25分から20分への放送尺短縮を食らった『科学戦隊ダイナマン』であったが、本来ならば逆風であるはずの変更をものともせず、画面を分割してアクションや変身シーンを観せることで間延びしないエキサイティングな画面作りに成功していた。
そうそう、アクションとその撮影について言っておかなければならない。
おそらくカメラの技術によるもの(だと信じたい。今のカメラマンの腕が悪いと思いたくないので)と思われるが、現行のヒーロー作品のアクションにはなかった「画面の奥行き」があったように感じた。
たとえばA地点でレッドが戦闘員を倒した後、カメラが右に振れると今度はB地点でブルーが戦っていたとする。この時私が見慣れていたのは、A地点〜カメラ、カメラ〜B地点の距離が同一のアクションだ。当然、「奥行き」は感じづらい。
『科学戦隊ダイナマン』で気づいたのは、A地点とB地点、あるいはCDE、とカメラの位置関係や距離がバラバラであることだった。当時のフォーカス精度やテレビの画質など、そもそもの限界によって許容されていたものが現代では通用しなくなったと言い換えることもできるが、NG厳禁のフィルムの時代(多分)にこのクオリティのアクションをやってのけていたのはもっと注目されていいのではないかと思った。

それでも写真は爆発ばっかり。
前作の記事でも言ったが科学の限界が来ている。しかしその発展によって失われ、観れなくなったものがあるのかもしれない。こういう瞬間に出会いたくてこの企画をスタートしたから、1つ夢が叶った気分だ。
……いや違う。本当に叶えたいのは「2025年中にスーパー戦隊を制覇する」という夢だ。放送尺が短縮されたとはいえ、まだ2桁残っている。残り3ヶ月、この夢は叶うのだろうか。
恐れていてはダメだ。そんな誰かからのメッセージを胸に、私は明日も明後日も戦隊を観る。

前作『大戦隊ゴーグルファイブ』の記事はこちらから↓↓
