スーパー戦隊シリーズ50周年を記念して勝手にスタートした制覇企画、第5弾である。
予告通り『太陽戦隊サンバルカン』より先に『星獣戦隊ギンガマン』を取り上げることになった。

『星獣戦隊ギンガマン』ではどのような物語が描かれ、またそれがどういった流れを産む形になったのか、率直な感想と共に記録していく。
小林靖子という「伝説」
特撮ヒーローものが好きな皆さんの中に、小林靖子という脚本家の名を知らぬ者は、まさかいるまい。
この企画を始める前、未視聴だった『電磁戦隊メガレンジャー』で彼女の名前を見つけ、そしてそれがスーパー戦隊シリーズにおいて彼女が始めてその名をクレジットされたと知った時の背筋の伸びようといったら、それはもうシルバースター乗馬倶楽部に突如生えたモークの大木のようであった。
令和になり特撮ヒーロー番組からしばらく離れてしまってはいるが、私のような平成生まれの特撮ヒーロー好きが小林靖子女史の作品を避けて育つことは不可能に近い。
そんな彼女がスーパー戦隊初デビューからわずか半年でメインライターを務めた『星獣戦隊ギンガマン』は、その筆致を堂々と、そして徹頭徹尾貫いた記念碑的な作品であった。

どれだけ戦況が不利になっても焦ったりしない首領が統べる、幹部たちは一枚岩とはとても言えない怪人陣営とか、恋愛や未熟さなど、我々一般人でも共感できる問いに大いに悩むキャラクターたちとそこから生まれてくる生きた会話とか、それらが結実していく熱い展開などなど。「靖子節」と言ってもいいそれは、一体どの地点からこの景色を見据えていたのか疑いたくなるほどに、静かで、それでいて確かな布石が打たれながら進んでいく。
これらはプロデューサーを務めていた髙寺成紀氏によるところも大きいだろう。『仮面ライダークウガ』で育った人間として、彼の持つヒーローへのこだわりが今作に注がれていないとは、とてもじゃないが考えにくい。
時に積み上げた型を茶化すような描写も見受けられた『激走戦隊カーレンジャー』、ゲームの戦士という入口から青い若者が力を手にする『メガレンジャー』のように、やはりヒーローが抱かれる既成の価値観からの脱却を図る作風を好んでいるのは想像に難くないが、その中でも更に刻一刻と自らの身に死が迫る中でヒーローではない個人の未来を優先し、その中でも人を救うという、いわば「髙寺のやりたかった『メガレンジャー』からの脱却」という荒業をやってのけた小林靖子女史は、幸か不幸か、パンクを好む髙寺プロデューサーその人に自由にやれる場を与えられた。

言うまでもなく彼女の活躍は前回の記事で紹介した脚本家、香村純子女史に影響を与えている。レギュラー陣の掛け合いによって深まる個々の人間性と関係性という旨みは『動物戦隊ジュウオウジャー』で言及した通りだが、小林靖子女史のそれはゲストキャラとの交流であったり、怪人をどう倒すか、というところで行われ、その分だけ作品世界がよりオープンな印象がある。……まぁ、この辺は好みだ。私は面白ければどっちでもいい。
後続のヒットメーカーに影響を与えたことで、まさに歴史を作ったと言っても過言ではなくなった小林靖子女史であるが、彼女の戦いはまさにその歴史への挑戦であったとも言えよう。

「戦士」というフィクション
一般人とは異なる文化圏で暮らしてきた戦士という設定は、スーパー戦隊シリーズの歴史上、かなり頻出している。一方、仮面ライダーシリーズではあまり現れない。この違いはなぜだろう。今まで考えたことはなかったが、この問いに至ったからには自分なりの回答を導き出したいと思う。
この設定の初出は『恐竜戦隊ジュウレンジャー』であろう。ここのセンセーショナルさについてはまた未見のためいずれ言及するとして、これらの設定に息づいているのはやはり『秘密戦隊ゴレンジャー』なのではないだろうか。
軍人と戦士、想像を絶する厳しい訓練をくぐり抜け、同胞意識も強く、危険の最前線に自ら飛び込む彼らの間には共通点が多い。つまり、一般人とは異なる倫理に則って使命を帯びた者たちに力を与えたところから端を発するスーパー戦隊シリーズは、この点において仮面ライダーシリーズと異なるのである。
ではなぜ、わざわざ軍人と戦士を分けるようなアイデアに至ったのか。この問いにも同様に考えていこう。これに関しては簡単だ。違いがあるとすれば、リアルかフィクションか、この一言で説明がつく。
我々がいる世界にも、軍人は居る。『ゴレンジャー』のように悪の秘密結社と戦ってはいないし、命をかけて地球を救う任務を背負ってはいない。ひとつの職業として、市民権がある。
その分だけ、軍人を描くにあたっては我が事にしなければならない問題が現れてくる。いわゆるトロッコ問題のような、一方を救うために他方を犠牲にできるのか、とか、正しいことをしたいが上の指示が下りない、とか。
『超力戦隊オーレンジャー』でやりたかったシリアス路線が実生活での事件や災害によって変更を余儀なくされたように、軍人という「知ってる中で一番力を持っている大人」の扱いは、たとえ迷走と評価されたとしてもデリケートでなければならない。
そして実生活に根付くヒーロー的存在を描きたいのであれば、警察や消防士など、モチーフになりうる上で動かしやすく、世界の流れに影響されづらい職業は沢山ある。
ウルトラマンシリーズでは2作ほど防衛隊が登場していないが、それはロシアとウクライナの戦争を受けての方針であることが明言されている。日常で今まさに軍人が望まぬ戦いに身を投じている中では、フィクションの中であっても「軍隊の人カッコいい!自分も軍人さんになりたい!」と思わせる訳にはいかない。ヒーロー番組というジャンルには、こういった宿命がある。
戦士はどうか。おそらく当時「戦士」と評されるべきであった者たちのスキルの多くはスポーツとなり、ルールが整備され、それを生業とする者は「選手」となった。
市民権こそあれど、職業というよりは「夢」である。そして「選手」は、命を投げうってメダルを狙いはしない。精神性こそ受け継がれてはいるが、存在としての「戦士」は今の時代、居ないと言って差し支えないだろう。
『ギンガマン』の巧みな部分は、まさにこの「戦士は現代に居ない、伝説上の存在である」という認識を覆し、フィクションでしか見たことのなかった存在が今まさに嘘みたいな逸話を残していく様を目撃している、という筋立てを行ったことである。

メインの視聴者であるちびっ子たちの代弁者として、青山勇太という少年を積極的にギンガマンの面々と交流させる。時に現代人の目からは無謀にも映る戦士の選択を勇太少年の肌身に感じさせることで、人が人を守りたいと想う、軍人も思っているはずの気持ち、その尊さと危うさを届けることができる。

「ギンガマンカッコいい!自分もギンガマンになりたい!」という気持ちを咎める大人はどこにもいないが、それでも「ギンガマンにはなれなくても、勇太みたいに勇気を出して立ち向かうことは自分にもできるかもしれない」と思えた子どもたちは、きっと多かったことだろう。どちらも正解だ。退屈なように見えていた森から突然伝説の戦士が現れる、その時感じたドキドキを、純粋さを、どうか忘れないでいて。きっとそのために、勇太少年の父は絵本作家になったのだろう。

29年という「軌跡」
さて、このようにして『星獣戦隊ギンガマン』はスーパー戦隊シリーズの歴史に燦然と輝く名作として人気を博した。
印象としては、動物をモチーフにし、稀代の女性ヒットメーカーが初のメインライターを務めたという共通点もあり、『動物戦隊ジュウオウジャー』と同様「優等生」の感覚が強い。少年マンガのようなストレートな熱さがある分だけ、語る側の熱も乗っていく作品だろう。

そしてここからは個人的なものになるが、今作の完走をもって、私が産まれた1996年の『激走戦隊カーレンジャー』から現在までのスーパー戦隊を全て制覇することができた。その数、実に29作。
いわば私の人生を物心つく前から彩った戦隊を追いかけ尽くしたことになる。少なくとも産まれて以降の変遷は実体験として語ることができる自信を得た。
『サンバルカン』から『忍者戦隊カクレンジャー』まで、まだまだ数は多いが、当初の目的である全てのスーパー戦隊を制覇する上で辿る道筋の中に今回の実績解除があったのはモチベーションに繋がる。
ここからは正真正銘、「過去」を知っていく旅になる。そんな今日もきっと、明日の伝説となる、かもしれない。

