スーパー戦隊シリーズ50周年を記念して勝手にスタートした制覇企画、第3弾である。
空白期間の要素も貪欲に盛り込みながら、今現在のスーパー戦隊の大まかな輪郭を象る役割を果たした『バトルフィーバーJ』。
それを受け『電子戦隊デンジマン』にはどのような物語が描かれ、またそれが平成生まれのヒーロー好きの目にはどう映ったのか、その率直な感想を記しておく。

戦隊の本能
「シリーズ初のアレコレを目の当たりにできるのが醍醐味」だと前回の記事で書いた。『電子戦隊デンジマン』においては初の変身アイテムが登場したし、巨大ロボ・ダイデンジンは初の変形タイプのロボットだったし、ヒロイン七変化回や怪人本人の巨大化など大小様々な試みがあったが、特筆すべきはシリーズで初めて、明確な指揮系統を持たない民間人のみの戦隊だったことだろう。
これまでの戦隊では元々軍人であったり、国防に近しい組織の長官からスカウトされたりして集められていたが、今作ではその辺の気のいい兄ちゃん姉ちゃんがある日ヒーローの使命を与えられる、といったものだった。きっかけは犬とのアイコンタクト。
もう一度言う。犬とのアイコンタクトで、一般人がデンジマンに、なる。
「戦隊」すぎる。
当時これを観た人々のうち、「犬とアイコンタクトして自分がデンジマンとなって戦う使命を帯びる」というあらすじを引っかかりなく飲み込めた人間はいたのだろうか。

私はといえば、物心ついたときには忍術師範がハムスターだったし爆竜が人語を話していたので、この程度のことで「そうはならんやろ」となることはないし、87歳のおじいちゃんが17歳に若返ってパーリーピーポーを目指すことに「ええやん」とさえなっている。
ただやっぱり、一般の感覚だと頭ん中?マークでいっぱいなんだろう、こういうのは。「戦隊」の歴史というのは、荒唐無稽でバカバカしいこれらの展開を観る側に納得させ続けてきた「なっとるやろがい」の歴史とも言える。
ゴレンジャーハリケーンを敵怪人の苦手なものに変化する爆弾として納得させてきたのと同じように、『電子戦隊デンジマン』においてデンジマン達を導く犬=アイシーは、3000年前に敵組織・ベーダーに故郷を滅ぼされたデンジ星人たちが地球へ逃げてきたときにコールドスリープさせたデンジ犬だという。
……分かる。「なんじゃそりゃ」となる、その気持ち。だから、こういうのが「戦隊」なのだ。もっともらしい理由など端において、何か面白いことが起こりそうな予感がする初期設定。早々にシリーズがこの実に「戦隊」らしいテンションに舵を切っていたことを知れた喜びがあった。

戦隊の理性
だからといって、何もかも都合よく話を進めるわけでもない。ピンクがデンジマンとしての使命を放棄して自身の夢を優先しようとした第2話などが顕著だ。
今まで普通に生活していたのに、それら全てを犠牲にして命を懸けた戦いに身を投じる。怖いのではない。ただ「私」という「個」が失われてしまうことへの抵抗。初めて公的組織に属していない『電子戦隊デンジマン』だからこそ描けた、『「ヒーロー」と「私」』の可能性だ。
「君が輝くために、戦いより陸上の大会に行くことを優先すべきだ」と「個」を応援してくれていた令和戦隊『キラメイジャー』にあったような、『「ヒーロー」と「私」』という問題への取り組みの出発点は今作であった。
今の価値観で言えば強引だ。元刑事で組織への帰属意識が強いであろうグリーンが引き止める主導権を握るあたりに小技が効いているが、それでも無茶ぶりだ。
批判したいのではなく、当時はそれが、「みんなで一丸となって」ということが、精神的にも物理的にもシンプルでやりやすかったのだと思う。それまでの仕事を辞めて同じスポーツクラブで働くようにするほど、集団でいようとする。

年号は移り変わり令和。「個」を尊重しているからこそ戦隊であり、離れることもできる、という形で、今も息づいている。昔から現在に至るまで、戦隊がチームだから描けるヒーローの在り方である。この視点で観るとやはり、遠くまで来たんだなと思う。

戦隊のカロリー
このように、『電子戦隊デンジマン』は非常に充実した内容となっており、毎回が戦隊の大いなる型の本格的な始祖とも呼べるものだった。
その分だけと言うべきか、そのボリュームに私のキャパシティが耐えきれなかった感覚がある。「戦隊観たい欲」が早々に満たされてしまうため、一気見のテンションで観続けるとパンクしそうになった。しばらく期間を空けた結果、1ヶ月になってしまった。正直悔しい。私の戦隊愛はこんなものなのか?
愛といえば、シリーズ初の心優しい怪人が現れたのも『電子戦隊デンジマン』だった。
厳密に言えば、博士の娘・ミカちゃんを人質にとるために優しいおじさんに扮した怪人・アドバルラーが、その仮初の優しさをどこまでも信じ抜く彼女の清らかさに良心の呵責に苦しむ、という内容である。
いつの間にか人を疑うことを覚えた大人に、こういうのが刺さる。騙されても騙されても、ミカちゃんにとっては優しいおじさんなのだ。
結論、いつも通りデンジマンに撃破されるのだが、レッドはこう言う。

「アドバルラーは、ぼく達というよりミカちゃんに負けたんだ」。
もう一つ。終盤になって悪の組織が乗っ取られるという展開があったのだが、こちらも興味深かった。
そもそも親玉があの曽我町子さんである。参謀であるヘドラー将軍を撃破された上、女幹部の片割れも自身の盾となって倒れる。こういったことに心の底から悲しむのだ。

乗っ取った憎き相手、バンリキ魔王がデンジマンと戦い劣勢になるのを喜んでいたり、全ての戦いが終わった後、「多くのものを失いすぎた、しばし休む」と姿を消したり、敵とはいえ確かに彼女の中に仲間を愛する心があったことが印象的だった(そもそも別にお腹痛めて産んだ訳でもない怪人を「我が子」と呼ぶ)。
勧善懲悪を謳うヒーローものにおいて、ヒーローですら超えていき、悪者ですら失えずにいるもの、愛。今の時代にもう一度こういうのを観てみたいと感じた。
悲しみの海は愛で漕げ、と言われた。ではまだこれからも続くスーパー戦隊制覇の海は何で漕げば良いのだろう。
それが見つかるまでは、振り向くことなく進むことにしよう、太陽を道標になんかしたりして。

前作『バトルフィーバーJ』の記事はこちらから↓↓↓
