幸せとは、なんだろうか。
離婚報告した記事でも書いたが、一般的に幸せを感じても許されるであろう様々なことにおいて、自分一人だけが享受している事実を重く受け止めるがあまり、果たして私は、少なくとも二人の人間を幸せにはできなかったこの私は、今目の前にあるこの幸せを感じていても良いものなのだろうかと、不安になることが多くなった。
一方で、周囲の心配や哀れみに応えられないくらい、案外元気にやっている。色々なコンテンツが私の人生に彩りを加えてくれていて、おかげさまで生きるのが楽だ。
要するに幸せと不幸せは表裏一体でほぼ同時に訪れてきて、『岸辺露伴は動かない 懺悔室』もそういうところから話が転がっていく映画だった、という話をしたい。
いくらコアなファンが幅広い世代に根強くついているからといって、いち漫画のサブキャラクターのスピンオフに過ぎなかった作品が、実写映画化(しかも2回)されるというのは、冷静に考えてイカれてやがるッ!という感じだ。
それと同時に、ほぼ地雷原と言ってもいい『ジョジョ』の実写化をここまで満足度の高いクオリティに仕上げている作り手の飽くなき情熱には、そこにシビれる!憧れるゥ!という感嘆を抱かずにはいられない。
前身となったオムニバスドラマや、比較的長めな原作を下地にした前作『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』ならともかく、短編読み切りにすぎなかった原作を約2時間の映画にすることへも、全くの不安が無かった。
ただでさえカスの三池崇史が4部実写化を失敗させ(観てないのにこんなこと言ってごめん。けどお前が悪い。)、「『ジョジョ』を実写化させること」への拒否反応が高まっていたところに、高橋一生が岸辺露伴をその身に体現させ、それを細部に至るまでこだわり抜いたであろうルックで捉えたポスタービジュアルを観た時の高揚感を今でも覚えている。
それは衣装を原作そっくりに作ることでもなく、幽波紋(スタンド)やそれらによって描かれる超能力バトルを魅力的に描くことでもなく、__まぁ、こういうことを言い出すから『ジョジョ』ファンが煙たがれるのは分かっているのだが__「正しい精神」が迸っていたからに他ならない。
それはえてしてメディアで安易に取り沙汰されがちな独特な擬音やポージングに覆われている、『ジョジョ』が作中でどれだけ時代や人物を変えても貫いてきたテーマ、「人間讃歌」を描こうとしていたからだ。
今作の特筆すべき点、評価が分かれるであろう点は間違いなく、原作エピソードの描写が描かれ終わった後のオリジナルストーリーであろう。
幸せの絶頂に達した時にやってくる「呪い」から一度は逃れた男が、それでも逃れられなかったことを示して終わった原作から大幅なアレンジが加えられている。
男を絶頂へと導くため舞い込んでくる幸運の数々を、男は「襲われる」と表現する。今作ではその「呪いの幸福」が岸辺露伴にも伝播し、また岸辺露伴その人も「呪いの幸福」の一部となって、再び男を絶望の底へ叩き落とさんとする「呪い」に翻弄されることとなる。
不幸にも肉親である父から幸せの絶頂へと向かうことを阻まれることになる娘と岸辺露伴は、クリエイターとしての矜恃で繋がっていく。偏屈で人嫌いの岸辺露伴が、娘を父から与えられる歪んだ愛から救おうとする動機は自らも「呪いの幸福」から脱し、腹立たしい幸福の中から自らの力で成果を掴む真実を取り戻すためなのもひとつあるだろうが、望まざる幸運に立ち向かわんとする娘の「覚悟」にシンパシーを感じたからであろう。
ヴェネツィアンマスクの職人と漫画家、孤独の中で己の中にしかない「至高」を追い求めるもの同士の連帯を感じた。それは私が少しばかり役者という立場を齧ったからだろうか。
そしてその連帯を、この思い切ったストーリー構成をやり遂げた制作陣にも感じた。先程も書いたが、原作を早々に描き切り、イタリアの風土や文化に根ざすことで全く浮ついた印象を与えなかったオリジナルストーリーで「映画」に仕上げる(しかも『ジョジョ』っぽく!)というのは、生半可な「覚悟」ではなし得ない。
今どきの話にありがちな毒親というモチーフは確かに『ジョジョ』的だし、原作では悲しき運命に縛られてしまった男の、己が可愛さに娘の幸せを奪っていく様はホラーサスペンスにより一層の展開を与えている。
____さて、幸せとは、なんだろうか。
自身が作り手を信頼し、作り手もまた我々観客のことを信頼して挑戦してくれていることが、今作を観て感じた私の幸せだ。
そして今作にならって言えば、この幸せを誰とも共有できなかったことが、私の不幸だ。とは言うが、いつかそういう人に出会えるかもしれない。
人生というものは、人間というものは、そういう希望へ向かっている方が楽しい。