今年、スーパー戦隊シリーズが50周年を迎えた。いずれは登らねばならぬ山、深く掘って自身のスーパー戦隊愛をより強固にしたいと思っていたので、一念発起、制覇することにした。
ということで、『機界戦隊ゼンカイジャー』地上波放送時に東映公式YouTubeチャンネルで観た『秘密戦隊ゴレンジャー』以来ひさしぶりの昭和戦隊、『ジャッカー電撃隊』の感想を記録していきたいと思う。

当時のちびっ子たちの心を掴み、2年近く続いた『ゴレンジャー』の続編として制作されたものの、歴史上唯一の早期打ち切りという幕切れを迎えている『ジャッカー電撃隊』。平成生まれのヒーロー好きにそんな不名誉な覚えられ方をされている今作にはどのような物語が描かれ、またそれがどう映ったのか。
シリーズ最初期を支えたスーパー戦隊オタクの諸先輩方に想いを馳せながらも、なるべく自身の感覚をストレートに表現していくので、知っていることがあれば教えてほしいし、ムカつくこと言ってたら思いっきり文句言ってほしい。そうやって色んな意見を投げ交わして知見を深めていきたいので。
シリアスへの挑戦
「渋い」。第一印象を端的に表すとこうなる。
慣れ親しんだ平成令和のスーパー戦隊に比べれば『ゴレンジャー』も大概渋いテイストだが、『ジャッカー電撃隊』はそれに輪をかけて渋かった。
完走後にざっと調べたところによると、この渋さはポップな作風に寄っていった『ゴレンジャー』へのアンチテーゼを込めた結果だということが分かった。
確かに序盤のスパイアクション風味は前作のそれを超える観応えで、劇画の世界から出てきたような顔の濃い人達が、浅黒い肌に汗を滴らせながら緊迫した状況を切り抜ける様は、当時これを毎週地上波の体制でやっていたと考えると相当気合いが入っていたことを容易に想像できた。
早い話が、セリフではなく表情や撮影技術で今何が行われているかを語る、というのが『ジャッカー電撃隊』初期のやり口であり、『ゴレンジャー』へのアンチテーゼの発露であったと思われる。
当時のちびっ子はどうだったのだろう。少なくとも私は、このアプローチがお茶の間にウケたという印象は抱かなかった。
キレンジャーがチェンジしてパンチひとつでぶっ壊す壁を、ジャッカーはちまちま指から生えた電ノコで時間をかけて削っていく。ひと目でわかる痛快さとじっくり噛み締めてこその渋さの軍配をちびっ子に預けるのは、あまりにもアンフェアだ。
しかしここに、私がスーパー戦隊シリーズ、ひいては東映特撮を愛してやまない理由が隠されていた。
ウケたウケなかったは別として、『ゴレンジャー』のアンチテーゼとして生まれた『ジャッカー電撃隊』は、自身が作り上げた成功をあえて否定するという、東映特撮の飽くなきチャレンジャースピリットがなくてはこうならなかったのである。
過去の遺産をあえて否定し、新たな切り口、展開、アイデアを貪欲に巻き込んでいく。これを私は「続けることへの狂気」と呼んでおり、東映特撮のお家芸だと感じているのだが、その狂気は私の想像を遥かに越えていたらしい。
まさか2作目にして、しかも約2年続いた原典(あえてこう表記する)に対してその狂気が働いていたとは。時代劇シリーズや仮面ライダーシリーズでノウハウが溜まっていたにせよ、このスピード感と思い切りの良さが東映を東映たらしめている、そんな気がする。
しかしこれには、重大な罠も同時に潜んでいる。

逆張りの罠
ジャッカー電撃隊は、オリンピック選手、ボクサー、麻薬捜査官、海洋学者と多種多様なメンバーがスカウトされ結成された特殊部隊である。その上それぞれ、核に電気に重力、磁力といった超エネルギーを持つ改造人間として手術を受けている。
ここまでバラエティに富み、またそれぞれのキャラクターに強みや特色が付与されているとなれば、当然それらを活かした話運びがなされていくのだろうとばかり思っていたが、どうやらそれは選ばれなかった。あるいは、その発想がなかったのかもしれない。
まずはメンバーの過去の経歴だが、ものの見事に特殊部隊になったことで上書きされ、なかったことにされている。『ゴレンジャー』ではモモレンジャーが爆弾のプロとしてゴレンジャーハリケーンの開発に一役買っていたが、『ジャッカー』ではそういう描写がない。
私はこれを、『ゴレンジャー』へのアンチテーゼを意識しすぎた故の結果だったのではないかと推測する。つまり、偉大なる前作から離れることばかりに囚われた結果、前作がヒットした本質を見誤ってしまったのだ。
せっかく用意した経歴はシリアスなスパイアクションを志向したためオリジナリティを失い、改造人間というアイデンティティは痛快さへの逆張り故になりを潜め(普通の人間とは違うという悲哀は『仮面ライダー』のものなので使えない)、そしてこれは私も意外だったのだが、4人というメンバー構成は画面に違和感として映っていた。
これまでと違う新しいものを、という試み自体は先述の通り賞賛に値するし、その意欲そのものがシリーズを継続させてきた原動力ではあるのだが、『ゴレンジャー』によって朧げにできた「スーパー戦隊の型」から離れた『ジャッカー電撃隊』は、残念ながら厳しい戦いを強いられることになる。
こうなった作品を観続けるのは、どうにも辛い。

膨れ上がる手札
『仮面ライダー響鬼』という作品がある。
他に類を見ないビジュアルと牧歌的でストレスの少ない登場人物たちが織りなす物語でオタク達を楽しませていたが、どういうわけか反響は芳しくなく、また制作体制の大規模な変更に伴い、後半に入ってガラリとその作風を変えてしまったことは、語り継がれるトラウマとして刻まれている。
昨年、その情報を既に知っている上で初めて視聴したのだが、作風の変化で言えばなんてことはない、ただこれまでウケた「平成ライダーの型」をやるようになっただけのことだった。
しかしこれがマズかった。その型を再否定するところから出発した『響鬼』に型を当てはめたとて、そこには必ず拒否反応が起こる。ビジネスとして事実上の敗北をしてしまった『響鬼』は否定したかったはずの平成ライダーっぽさの元で延命することでなんとか1年を走り抜いたが、結果できたのは歪なキメラのような作品であった。
中盤に入り、様々な要素を加えていった『ジャッカー電撃隊』も同じことが言える。野球のコーチをやっているダイヤジャック、片時もけん玉を手放さないクローバーキング、謎に2回もやるスーパーカー回、喋り始めるメカのハムスター。
唐突にポップな表情をみせ始めた『ジャッカー電撃隊』。これが悪手だった。
いくらウケなかったとはいえ、作り上げてきた空気感というものがある。それら全てをなかったことにはできないはずで、そこを意識しなかった『ジャッカー電撃隊』はなんだか「根は真面目なはずの大人たちがいっしょうけんめいがんばるはなし」になってしまった。
結論、中盤の『ジャッカー電撃隊』はどっちつかずだった。細かい要素を散りばめつつも、スパイの部分にはメスを入れたくない、そんな葛藤を受け取った。
こういう時は受け入れるしかない。ようやくそこに辿り着いた『ジャッカー電撃隊』は、その歪さに拍車をかけることとなる。
なんじゃお前
終盤近くになり、遂にビッグワンがジャッカーの一員となる。というか、明確にこれまでの4人の上司、行動隊長として上に立つ存在として突然現れた。
どうやらこのビッグワンがちびっ子に人気だったらしい。なんかまぁ、分からんでもない。スタイリッシュでキザな言葉、ピンチに颯爽と現れジャッカーを救う。弱点らしい弱点もなし。
あまり魅力的には映らなかった。共に並び立って戦うならまだしも、ふざけた変装で撹乱してクライムの作戦を阻止したらまた姿をくらまし、戦闘でピンチに陥ったら「ビーッグボンバー!」って飛んでくる。ほんで勝ち。はぁ?デウス・エクス・マキナやんけ。めちゃくちゃ舞台装置やん。
しかしこのゴレンジャーハリケーンのパクリみたいな新必殺技、ビッグボンバーは従来のジャッカーコバック(頭で怪人の四方を防いでグルグル回って飛び上がり蹴りあげると爆発するという意味の分からなさすぎる必殺技)に比べて分かりやすかった。

4人から5人になったことの影響も大きく、Vの字に並ぶ構図はなぜか安心感がある。やはり、と言うべきだろうか。だからまぁ、必要なキャラクターだったと思う。
問題は姫玉三郎という炊事係だ。
なんじゃお前は。
コメディリリーフとして登場したこの人物のことを一切知らなかった。炊事係の癖にそんな美味くないらしい。訛り言葉で緊迫感をことごとく壊していく様を当時の視聴者は許容できていたのだろうか。
こういうバカの何気ない発言がヒントになるみたいなあるあるの展開もなく、ただ小噺で下らないダジャレを放っていくだけのこの男の登場の方が耐えられなかった。マジでなんのつもりだったんだろう。
まとめ
このように、ありとあらゆる紆余曲折、右往左往、七転八倒を繰り返して、ジャッカーが宿敵クライムのボスの髭ヅラオヤジ、鉄の爪(とついでにそのボスのシャインとかいうぽっと出の宇宙人)を倒して『ジャッカー電撃隊』はその物語を終えた。
スーパー戦隊シリーズ制覇の第1弾として迎えるにはあまりにも不安定なスタートとはなってしまったが、今作で行ってきた試行錯誤が続いて、今も親しまれていることは自明である。
今作がやりたかったシリアスなスパイアクションは『特命戦隊ゴーバスターズ』でようやく結実したように、続けてさえいれば、いつかは花も咲くだろう。
カプセルに入る変身バンク、戦闘中の口上、特殊能力を各自が持つ設定、途中から仲間になる戦士の登場、スーパーカーやプロ野球などの時代を彩るカルチャーを物語に取り込む姿勢など、これから後世にアップデートをされながら芽吹いていく予感はそこかしこに散りばめられていた。
スーパー戦隊の最初期に触れることの歓びはこういうところにある。若かりし頃の真田広之が出てるなんて想像もしてなかった。
不遇ではあるが決して不要ではない。それはそう、1枚欠けたトランプではどんなゲームも成り立たなくなるように。

