私立アメコミ高校

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【総括】ウルトラマンアーク感想 特撮界隈はどんな夢を見たのか?

新しいウルトラマンは「想像力」をテーマにするらしい。それを知った時にまず「なにを今更……?」という疑問と、「思い切ったなァ!」という称賛が同時に心を満たした。

 

地球に現れた混沌の象徴としての怪獣や宇宙人と、それらから人類を守る秩序の象徴としての銀色の巨人。そんな世界で起こるあれこれを、もし毎週テレビで観せることができたなら。そもそもこれが、今我々が享受しているシリーズの出発点である。

 

そしてそれから、数々の変革が起こった。超古代の光の巨人は姿を変えて戦い、悪行の限りを尽くす者が現れ、人語を話す回数は増え、他の者の力を借りて戦うようになり、そして前作では、極端な野性味を持たせるに至った。

 

これらは全てシリーズの裾野、言わば可能性を広げる行為に他ならないと感じている。ニュージェネレーションの筆頭であるウルトラマンゼロが既に15周年。同じ括りに入れられていたとしても、何かを変えなければいけない、そんな機運が高まっていたのだろう。

 

だからこその原点回帰。真正面から「想像力」をテーマに描く。何も間違っていない。疑問は解消された。

 

そして、お出しされたものは「大喜利」に近かったように思う。「そんなのアリかよ!?新しいウルトラマンの意外な戦い方とは?」の回答を出されているようだった。

 

結論、めっちゃ最高だった。バリアを割って鋭利になった部分で怪獣に突き刺す(剣があるのに)とか、光輪とバリアを組み合わせたプロペラで土煙を吹き飛ばすなどは、大喜利に例えを合わせるのなら、ウケる回答だった。

 

これらを実現可能にしたのが、『ブレーザー』より継続して供給されている、新規怪獣達の活躍である。得体の知れない怪獣が、毎度ウルトラマンを追い詰める!さぁ、ここからどう切り抜ける!?……これを毎週やって(やれて)いたのが、ニュージェネレーション以前のウルトラマン達だ。

 

怪獣の手の内が分からないから、あの手この手で倒すのだ。毎度毎度バカ正直に十字に腕組んでビーム撃って、それでアンタは本当に満足するんですかってハナシ。芸はないんか?と思いませんかってハナシ。前作の最終話までそのビーム引っ張りに引っ張ってブチ上がりませんでしたかってェハ・ナ・シ。

 

ウルトラマンが怪獣を倒す」という物語の結果を絶対に変えられようがないのなら、過程で面白くする。だからウルトラマンはバリアを割る。

 

もう一つ。技術で魅せる方法もある。今この時代、リアルのミニチュアを派手にぶっ壊してくれる絵面はウルトラマンでしか得られないものになりつつある(他でやってないとは言ってないよ)。

 

これに関しては今に始まったことではない。ただぶっ壊すのではない。ぶっ壊れ方、その観せ方にとことんこだわる。あれこれ試す。パロディ(空に巨大兵器の姿がうっすら見える)とかではない、『シン・ウルトラマン』を経ての正統な変化を感じる画を沢山観せてくれた。

 

このように、作り手の工夫が、「想像力」をテーマにしたことによって解き放たれ、「大喜利」のようなものになったのだと考えている。何度でも言うが、めっちゃ最高だ。走るのをやめたシリーズに未来は無い。

 

そのことを自覚していたのか、中盤でオニキスをアーマーにするというウルトラCを決めて以降、ややお行儀良く、大喜利でいうところの上手さに感心する回答になってしまっていた戦いが、最終話でウケる回答に帰ってきた。まるで『アーク』の真骨頂はこれじゃい!と言わんばかりに。

 

いや、中盤の展開もアツかった。あの感じも「想像力」の別視点からの捉え方だったから、なんなら王道な感じさえした。だから逆説的に『アーク』の良さ、持ち味は序盤と最終話の戦い、ということになるわけで。

 

いつからビームが直線じゃないといけなくなったんですか。うねらせて横とか縦に曲げてバリア避けちゃダメなんていう法律があるんですか。

 

あなたはウルトラマンの何を知っているんですか。

 

凝り固まった「ウルトラマン観」を、ともすれば子供じみた大喜利で破壊しにきた『ウルトラマンアーク』。語りたいことは山ほどある。登場人物個々のエピソードとか、ユウマとアークの絆とか、枚挙に暇はないけれど、それまでやると終わらなくなるので絞りました。

 

そういえば、と思って振り返ったら『未来へ駆ける円弧(アーク)』が第1話だった。ヤバっ。めっちゃスゴい。こういう円谷プロの真摯さがめっちゃ好き。

 

媚びてないです。皆さんの想像にお任せします。